サムライサイン

織田 信長

豊臣 秀吉

徳川 家康

歴史に名を残す武将たちの華やかな「花押(かおう)」を鮮やかに現代に蘇らせました。
「サムライサイン」は単なる「武将の花押」のレプリカではありません。
書道家の有川翠雲が武将たちの崇高な「志(こころざし)」を研究・理解し、美術作品として完成させました。
翠雲は“無鑑査”。すなわち、作品の善し悪しについて他者の評価を受けない、高位の書道家です。
その翠雲が、一本一本こころを込めて作り、武士道を注入しました。さらに臨書作品として落款を入れています。
同じものは二つとしてなく、芸術的な価値の高い作品です。

☆☆☆ 制 作 方 法 ☆☆☆
〇純金作品

平安時代から伝わる「紺紙金字経」の手法を取り入れ、「純金」で書いた豪華で重厚な作品です。
京都の専門店より「純金」(金含有量99.99%)の金泥を取り寄せております。
書いた後に「猪牙(ちょき)」と呼ばれる道具で「純金の文字」の表面を磨きます。
そうすると、金の粒子がつぶれて引き延ばされて「黄金の輝き」が増します。
先人たちの知恵をふんだんに取り入れた制作手法です。

〇墨作品

上質な墨を濃墨にして書いた花押本来の魅力を大切にした作品です。
白い和紙に「漆黒の墨」、シンプルなコントラストが花押本来のデザインを際立たせます。

☆☆☆ 作品のバリエーション ☆☆☆

扇作品、額装作品、フレーム作品をご準備しております。(クリックで拡大↓)

フォトフレーム

豊臣 秀吉 公

徳川 家康 公

徳川 家康 公

豊臣 秀吉 公

額 装

豊臣 秀吉 公

徳川 家康 公

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織田信長_samurai_sign
織田信長_0
織田信長_02
織田信長_03

長が生きた時代は戦国時代である。
その書状が本物の信長の書状かどうかは、花押がその真贋の決め手となった。

信長の花押はこれだけではない。
信長は生涯に十回前後も花押を変えたといわれている。
いや、変えざるを得なかったといえよう。
偽物の書状が横行する中、花押は「本物の証明」としてその存在価値を発揮した。

この花押の解釈には諸説あるが、2つの説を紹介する。
第1の説は「名前の漢字、信・長」をモチーフにしたという説。
第2の説は伝説の聖獣である麒麟の「麟」という字をモチーフにしたという説。

第2の説は信長の「天下統一への願望」を表しているといわれている。
信長の花押は、花押が「その人物のアイデンティティを表す・その人物の人間性そのものである」といわれる好事例の一つであるといえよう。

信長の花押の本質は「信長自身しか知らない」ということである。
しかし、後世の我々が歴史的事実、信長の性格などを考慮し、彼の花押について考察することは楽しいことである。

田信長は戦国時代に天下統一を目指し、その後の歴史を大きくかえた日本を代表する武将である。
信長が進めた革新的な政策の数々や天下統一への志は、豊臣秀吉や徳川家康によって受け継がれる。
400年経った今でも、信長のリーダー像に惹かれる人は多くその人気は衰えない。

尾張を統一し戦国大名となった信長は「桶狭間の戦い」で今川義元と対峙した。
義元の軍勢は25000名、対する信長の軍勢は2000名、その差は歴然としていたといわれる。(軍勢数は諸説あり)
大雨の中、信長の奇襲は大成功し、奇跡の勝利を手にした。
ここから信長の快進撃がはじまる。
数々の戦いに勝利し「天下統一の階段」を駆け上がっていくが、天下統一を目前に「本能寺の変」で腹心の部下であった明智光秀に裏切られ、その劇的な人生の幕を閉じた。

信長が残した遺産は政治的な面だけでなく、「南蛮貿易」などの海外政策、「楽市楽座」などの経済政策、「茶の湯」などの文化面においても大きな足跡を残している。

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豊臣秀吉_00
豊臣秀吉_02
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臣秀吉の花押は「悉」という字をモチーフに創られている。
「悉」には「悉国平定:全ての国を平和にする」という秀吉の志がこめられているといわれている。
「悉」は秀吉の「秀」と「吉」の2文字を「反切(はんせつ)」という手法を用いて導き出された字である。

一般的な花押は全ての線がつながっているデザインが多い。
これは花押が元々は「一筆書き:最初から最後まで、線をつなげて書くこと(同じ線を何度も書いてもいい)」を前提としているからであろう。
しかし、秀吉の花押は他の線とつながっていない「独立した線が」上部の左右に配置されている。
ここにも秀吉がこれまでの習慣にとらわれず自由な発想を持った人物であったことが想像される。
花押がその人物の人格をも表すと言われる事例といえよう。

また、秀吉はこのデザインの花押を長く使っていたようである。
これは同じ花押を長期間使うことによる「ブランド戦略」といえよう。

臣秀吉は巧みな人心掌握術と類まれなる政治的手腕で天下統一を成し遂げた戦国時代の武将である。
秀吉は尾張国の百姓の家に生まれたが、織田信長の奉公人として仕え、数々の武功をたて成功の階段を駆け上がっていく。

「本能寺の変」で明智光秀に信長が討たれると、秀吉は「山崎の戦い」で光秀を討ち、実質的な信長の後継者となることに成功した。
その後、秀吉は「関白、太政大臣」の地位を手にし、「朝廷の威光」を使うことで念願の天下統一を果たすことになる。

しかし、晩年、秀吉は朝鮮出兵、世継ぎ問題などで前半生の輝きを失わせてしまう。
秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」だった。
天下人して上り詰めた人物ではあるが「私の人生はなにもかもが夢のようにはかないものであった」という思いを残してこの世を去った。

秀吉が亡くなった2年後に関ヶ原の戦いで徳川家康が実質的に天下統一を果たすこととなる。

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川家康の花押はシンプルではあるが堂々としており、まさに「天下人」の花押といえよう。

この花押作成手法は「明朝体」と呼ばれ、天地に2本の横線(天に短い横線、地に長い横線)を用い、その中にモチーフの字をデザインしていくものである。
家康の花押は「苗字の一文字 徳」の字をモチーフにしているといわれている。

家康の花押は「徳川判」と呼ばれ、これ以降の花押デザインに大きな影響を与えた。
徳川幕府の歴代の将軍はいうまでもなく、武家の花押の基本型となった。
天皇や僧侶の花押までも、この「徳川判」で花押を作成している事例がある。
この影響は現在も続いており、多くの大臣たちがこの「徳川判」でデザインされた花押を使っている。

しかし、徳川家康が用いた花押はこのタイプだけでなく 別のタイプの花押も存在している。
今川家の庇護を受けていた頃の家康は、実質的な主君であった今川義元の花押を「模した」花押を用いていた。
花押を見るとその主従関係がわかる事例の一つである。

川家康は、混乱した戦国時代に終止符を打ち、天下統一を成し遂げた日本を代表する「サムライ」である。
彼は260年間続いた「江戸時代」として知られる平和な時代を築いた。

家康の人生訓に「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」がある。
これは人生を急ぐものではなく、ゆっくりと積み上げていくものと考えていた家康の哲学を示している。

また、「勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る」という言葉がある。
これは絶えず勝ち続けることのみを知っていると、いつか大敗を喫することになるという教訓である。

家康自身もこれらの教訓を生かし、関ヶ原の戦いでの最終的な勝利を手に入れた。

家康が活躍した時代は、まさに戦国時代と呼ばれる激動の時代であった。
家康はこの時代を独自の戦略で駆け抜け、数々の勝利を収めた。
一介の大名から征夷大将軍へと変貌を遂げ、戦国時代のスーパースターとなった。